the eating & lives in TAKASHIMA

第25話 鯖街道と花火
~地子原集落の夏の1日③〜
【 朽木 】

花火大会をはじめた3つの理由
0
  • 花火大会をはじめた3つの理由
  • 1.むかし地子原で一緒に遊んだり過ごした人と再会するために
  • 2.地子原のみんなのきずなを深めるために
  • 3.未来に地子原の人のきずなをつないでいくために
花火の種類はおまかせで送られてきます
花火の種類はおまかせで送られてきます
花火を上げる順番や間隔を考えて準備
花火を上げる順番や間隔を考えて準備
地子原の集会所にみんなが集まってきました
地子原の集会所にみんなが集まってきました
夜空を彩る花火
夜空を彩る花火

地子原のお盆の花火大会は、昨年(2015年)がはじまりです。たちあげたのは当時の区長さん、役員さん、福祉推進委員さんなどでした。理由をお聞きすると「お盆にはどの家にも若い人たちが帰ってくる、でもみんなが集まって会える機会がなかったから。」「お盆だけでも集落のみんなで集まれたらと思って。」「だんだんみんなが年をとってきて、若い人が誰が誰だか分からなくなってくる。今、分かっているうちに集まって交流しておかねば。」という答えが返ってきました。

「花火をやろう!」と言ったのは誰もが楽しめるものだから、そして地子原には「花火師」が居られたのも、大きな追い風となりました。
花火師(正確には煙火打揚従事者)の吉田正司(よしだまさし)さんは、30代の時に地子原に移ってきました。「家を新築する時に、環境や人口密度がちょうど良かった」そうです。
花火師の資格をとったのは平成13年。観光協会の職員である吉田さんは、当時毎年開催していた朽木の花火大会の費用を抑えるために、商工会などの仲間と一緒に資格をとり朽木花火師会をたちあげました。今日もその仲間が集まり、地子原の夜空に本物の花火をデザインします。

午後8時半、夕涼みができる宴の座席が設けられ投光機に照らされた地子原の集会所に、続々と人が集まってきました。地子原に住む人はもちろん、いつもは集落外に住んで仕事に通っている若者も、今は別の地域に家を建てて出て行ってしまった人達も、懐かしい顔がそろい話がはずみます。

区長さんのあいさつの後、お待ちかねの花火が夜空を彩りました。数が少なくて時間は短かったけど(予算の関係で仕方ありませんね)、花火師さんの工夫もあり見ごたえたっぷりでした。周囲を山に囲まれた小さな村の夜空に、集落の人たちのために上がる大きな花火。数十人の観客のための、とても贅沢な時間でした。

「もうずいぶん長いこと会うてへんなぁ、あの人どうしてるやろ」「子どものころの顔しか思い出せんけど、もう幾つになったんかなぁ」。春に開いた区の役員会で、むかし地子原でいっしょに遊んだり過ごした方たちを懐かしむ声があがりました。「そしたらいっぺん、久しぶりやなぁの会を盆に開こうか」と相成った次第です。この集まりをきっかけに、みんなのきずなが深まり、小さい子が少なくなってちょっぴり寂しくなった地子原が、少しでも元気をもらえれば、と思っています。地区「現」住民一同、心よりお待ちします。(2015年8月31日発行『お帰りなさい じしはら納涼会 記録写真帖 永久保存版』より)
当日の花火の状況はyoutubeにリンクしている以下のアドレスからご覧いただけます。
https://youtu.be/csn7kh5NfGE


ライター

西川 唱子
2008年、琵琶湖の対岸の彦根市より縁あって高島市に移住。「NPO法人結びめ」にて滋賀県・高島市への移住促進や、集落振興などの業務に携わる。現在は“たかしまの未来を創るシゴトおこしプロジェクト”を推進する「高島地域雇用創造協議会」と「結びめ」を兼務。高島で出会う人や文化の魅力を多くの人に伝え、繋げるために、大好きなデザインや文章で表現したいと考えています。(安曇川町在住)

カメラマン

高村 洋司
1965年生まれの50歳。 成人式の当日は他人の振り袖撮影助手していた・・と書くとその道30年以上のベテランみたいになるのですが3年ほどは写真と関係のない仕事をしていたこともあります。結局戻ってしまい現在に至ります。今住んでいるマキノの家は2006年頃から手を付け始め、住めるようになったのは3年程前。大工仕事やメカニックが本業だと思われているフシもありますが違いますのであしからず。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA