the eating & lives in TAKASHIMA

第26話 高島の奥座敷「湖里庵」
~高島高校生が体験した伝統と革新②〜
【 マキノ 】

いよいよ「湖里庵」での食体験
いよいよ「湖里庵」での食体験
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  • 7代目“魚治”3つの言葉
  • 1.文化をつなぐ歯車になる
  • 2.鮒寿しを食卓に戻したい
  • 3.鮒寿し作りは乳酸菌の活動し易い環境が大事
美味しい!!!
美味しい!!!
鮒寿しサンドの天ぷら
鮒寿しサンドの天ぷら
琵琶鱒(びわます)のお造り
琵琶鱒(びわます)のお造り
鮒寿し茶漬け
鮒寿し茶漬け

「湖里庵」の鮒寿し専門店「魚治」が母体になっている料理宿です。7代目当主の左嵜謙祐さんに伺ったお話しをレポートします。
【取材レポート】
「魚治」は、天明4年(1784年:歴史で習った田沼意次の時代)、今から232年前に、「魚屋 治右衛門」として、スタートしました。佃煮や鮒寿しをつくったところ、乳酸菌が良かったのか、鮒寿しが大変評判が良かったそうです。以来、鮒寿しを作り続け、代々「治右衛門」の名を継ぎ、謙祐さんは7代目です。24歳で代を継ぐとき、父から「歯車になれ」と言われたそうです。その言葉の意味を考えながら、代々引き継がれてきた作り方は変えずに、提供の仕方は時代に応じた工夫をしているそうです。商売でありながら「文化」を次の時代に伝えてゆく役割を常に考えていらっしゃるそうです。

食品を発酵させることは食料の保存が難しかった時代の智恵として生まれたものでしたが、鮒寿しは時代と共に特別な料理や贈答品という扱いになって来てしまいました。しかし謙祐さんが子供の頃は近所の家庭でも日常の食卓に鮒寿しがありました。また風邪気味になったときでも鮒寿しを漬け込んでいる“飯(いい)”を食べるとすっかり治ってしまった経験から身体にとっても非常に良いものだという認識があり、現代の食卓に鮒寿しを戻したいという思いを強く持たれていらっしゃいます。

「魚治」の鮒寿し作りの特徴は木桶による漬け込みです。一時はプラスチックの桶で漬けるようにようになったのにもかかわらず、あえて木桶作りの職人を探し、難しい木桶での鮒寿し作りに挑戦したのは鮒寿し本来の“丸みのある味”にこだわりたかったことや“技術を守る道具の使い方を伝えてゆくこと”も重要だと考えられているからだそうです。木桶はプラスチックに比べ外気の温度が伝わりにくく発酵に時間がかかることと、木桶自体に菌が住んでいるところが大きく異なります。蔵には当主しか入れない規則もあり、漬け込み作業の期間中は他の発酵食品も食べないという徹底した取り組みも怠りません。

「魚治」の向かいには、先代がはじめた料理宿「湖里庵」があります。湖里庵という名は、海津の地を愛し、遠くから足を運んでくださっていた故遠藤周作先生につけていただいたそうです。(氏は、エッセイなどでは“狐狸庵”をペンネームとされていた。)鮒寿しを初めて召し上がっていただく方には、鮒の育った風土の中で鮒寿しを召し上がっていただくのが一番とおっしゃいます。
私達も高島に住んでいながらほとんど鮒寿しを食べたことが無く「湖里庵」での経験は鮒寿しの印象を変える体験になりました。


ライター

高校生チーム
「高島の奥座敷 “ 湖里庵 ” ~高島高校生が体験した伝統と革新~」では地元の高島高校生が “ 湖里庵 ” にて鮒寿しをいただき、感想をレポートします。高島で育った彼らにとっての鮒寿しといえば、 “においがきつく美味しくない” というイメージでこれまでほとんど食べてこなかったそうです。しかしこの取材を行うにあたって自分達から「参加したいです!」と手を上げて来てくれました。知っているようで知らなかった市内の小さな大冒険を楽しんでくれています。高校生チーム紹介ページ

カメラマン

高村 洋司
1965年生まれの50歳。 成人式の当日は他人の振り袖撮影助手していた・・と書くとその道30年以上のベテランみたいになるのですが3年ほどは写真と関係のない仕事をしていたこともあります。結局戻ってしまい現在に至ります。今住んでいるマキノの家は2006年頃から手を付け始め、住めるようになったのは3年程前。大工仕事やメカニックが本業だと思われているフシもありますが違いますのであしからず。

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